前置きが長くなりましたが、そういう「どっちが燃えた」だの「どっちが鳴った」だのという理屈をコネているようではまだまだ青い!!というのが「隻手音声」の心だそうです(?)。これは禅問答の一つなのですが、明確な答えはありません。質問しておいて「ゴチャゴチャ言うな!」とは横暴な気もしますが、答えが無いのが禅問答なのだそうです(??)。
しかし、我々合気道の徒は、似たような問答(ジレンマ)にぶつかったことはありませんか?
「突きや横面打ちは、後ろ足を歩み出して打つ」
なんでわざわざ見切られやすい攻撃の仕方で稽古するの?
「脱力しろ」
いや、結局力やスピードには対抗できないでしょ?敵を前にして力を抜くなんて正気の沙汰じゃない!
「敵を倒すためのものではない」
はあ?敵を圧倒してこその武道なんじゃないの?
「取り(技をかける人)についていきなさい」
あれれ?受け(技を受ける人)が取りに気を遣うの?やっぱ合気道ってヤラセなの??
合気道を「動く禅」であると評したのは、仏教学者の鈴木大拙(※1)先生です。それは「浩然の気」(※2)や「猫の妙術」(※3)といった最終境地としての合気道を賞賛されたのでしょうが、私はむしろ合気道の修行者なら誰でも日常的にモヤモヤしてしまうところが、禅の修行っぽいなあと思うのです。到達地点が同じなら、そのプロセスが似ているのは当然です。我を捨てるために禅問答と格闘しながらモヤモヤしている状態が至高なのです!(???)
「禅は天才の道である」とは司馬遼太郎さんだったような。凡人が禅をひねくり回しても、ひねくれた人間が出来上がるだけだ、と。一休さん(一休宗純 )は破天荒な禅僧だったそうですが、やはり天才だったのだと思います。
合気道でも、手前勝手な解釈でヘンテコな技を披露する輩がいて情けなく思うことがありますよね。天才でないと大成できない道なら、踏み外す人がいるのも当たり前なのかもしれません。
どっちが鳴った?
両手が鳴った?
あなたの合気道は、どう鳴っていますか?
どう鳴るのが正しい?
どう鳴ったか考えているようでは、まだ青い!?
(Z)
※1 鈴木大拙(貞太郎):仏教学者・文学博士(1870 - 1966) 欧米における禅への関心の高まりは、この先生の著書による。哲学者の西田幾多郎、藤岡作太郎とは同郷
※2 浩然の気:孟子の説いた説。人間の内部より発する気で、正しく養い育てていけば天地の間に満ちるものとされる。 物事にとらわれない、おおらかな心持ち
※3 猫の妙術:佚斎樗山(いっさい ちょざん:1659 - 1741)著の談義本。五輪の書(宮本武蔵著)に並ぶ武芸指南書とされる
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