先日、当道場の師範代:小林五段による「居合パフォーマンス」を観て参りました。ナヌナヌ?居合と和楽器による音と空間とな?よかろう、もし居合をないがしろにするようなチャラい見世物だったら、我が愛刀:備前景光で刺し違えてくれようぞ!(妄想)。私も多少居合を嗜んでおりまして、どのようなパフォーマンスなのか楽しみにしておりました!
めっちゃカッコよかったです!キレッキレじゃないですか。音楽も単調な拍子でないところが居合の静と動に合っていると思いました。琴や尺八にとてもパワフルな一面があることも驚きでした。現代音楽は、どうしても西洋クラシックが基準となってしまいますが、極東のマイナー民族には決してそれだけでは触れられない琴線があるのでしょう。
ご本人が謙遜される通り「武」よりも「舞」とされている部分はありましたが、まぎれもなく素晴らしいパフォーマンスでした。居合道というのは、そもそも「演舞」に陥りやすい武道です。良い悪いではなく、種類の違いです。私は、若いころに仕事で舞踏の世界に多少関わったことがあり、その難しさや厳しさ、奥深さや華やかさは、生半可な武道の比ではないと思っています。
居合道では、なんせ相手は自分の心の中にしかいませんから、武術的な理合よりも自分がカッコイイと思う方、気持ちがいい方へ技が流れてしまいがちです。「自分に納めるな」と言います。これは納刀の法なのですが、納刀って見せ所なんです。カッコイイとこなんですよ。だからついついカッコよく見せようとしてしまう。すると武術の理に適っていない、隙だらけの「ただカッコイイだけの動作」になってしまいます。やはり、そこに武を忘れてはいけないから武道たるわけです。
合気道も武道とはいえ競技でない以上、常にその危うさを抱えています。攻撃をやめてしまう受け。反撃を警戒しない取り。合気道のような型稽古では、お互いが本気で相手を倒す気が無い以上、勝負の機微を完全に再現することは不可能です。
しかし武と舞は、表裏一体なんじゃないかとも思うのです。だって上手な人の技って見栄えがよく、理屈抜きでカッコイイじゃないですかっ!?それは、安定した中心軸であり、出力方向への向き、間合い、目付け、腰の据わり、残心の余韻や相手と調和した無駄のない自然な流れであるわけです。あ・れ・・?改めて言葉にすると、舞踊の世界でも言われていそうなことばかりですよね?一度思いっきり「演舞」方向に振ってみますか。それはそれで何か見えてくるかもしれませんし、かえって近道なのかもしれませんよ?(Z)
Comments