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Bullshido じゃないのよ!(下)

  • 執筆者の写真: Aiki Hamakaze
    Aiki Hamakaze
  • 1 時間前
  • 読了時間: 3分

 

  いやまったく、自分は合気道の何をこんなに面白がっているんだろうと不思議に思います。実際、bullshidoなどと揶揄されても本気で腹を立てる合気道家は、私を含めてあまりいないと思います。 

  

 なぜなら、その厳しさを十分に実感しているからです。 

 

 それがただ効かない、弱い、役に立たないだけの健康体操もどきであれば、だれが忙しい合間を縫って週に何度も稽古に足を運んだり、140ヶ国以上もの国々に広く受け入れられたりするでしょうか。  

 

 誤解を恐れずに私見を申し上げますと、私は合気道にも勝ち負けはあると思っています。ただ、その勝敗を判定する旗が上がることはなく明確なルールもありません。ざっくり言えば、それは「どれだけお互いのためになる稽古ができるか」ということではないでしょうか。もし、自分の相手に「面白い・為になる・もっとこの人と稽古をしたい!」と思わせられれば、その人は勝負を制したのです。もっともこの勝負には、お互いの向上心と相手への敬意が不可欠です。 


 競技と同じように合気道にもルールがあります。それは、お互いが「取り」と「受け」という決められた役を演じることにベストを尽くさなければならないということです。取りの役は、「受けの練度に応じてどれだけ自分の技術の限界を示せるか」ということであり、受けのそれは、「繋がりを維持しながら、取りの意図に対してどれだけ適切に反応できるか」ということです。 

 

 この受けによる「繋がりを保つ」という行為が最もヤラセや忖度として第三者の目に映りやすいところですが、繋がりというのは相手への執着の表現であり、攻撃姿勢そのものです。これが無ければお互いに距離を取り、ただ睨み合っていればよいことになってしまいます。

 

 私は、取りの入力に対して反応しないどころか、ただ抵抗してくるだけの受けとの稽古も面白いですし、武術を標榜するなら必要な鍛錬だとも思います。ところが、動かない相手というのは意外とスキだらけですし、動かない受けというのもやっていて全然面白くありません。動かない受けは、鍛錬していない初心者でもできますので。受けとして的確に反応し体を練ったほうが、とりもなおさず取りとしての技の修練にも繋がると思うのです。

    

 受けの稽古が取りの稽古・・?はて、そもそも何が目的なんでしたっけ・・??というとりとめのない禅問答のようなところも他の武道や競技と一線を画す合気道の面白いところではないでしょうか。取りと受けがお互いの務めを高い次元で果たそうとすれば、その境界線は曖昧になり、奇妙な一体感すら感じることもあるはず。そこには取りと受けの心があるのみです。「取りと受けにしか分からない」ところが bullshido という評価を招きやすいのでしょうが、負けたとしても誰も傷つかず、勝ったら自分の技は進み相手も喜んでくれるだけ・・!こんな素晴らしい勝負が他にあるでしょうか。


  

 私は、競技としての武道や格闘技は嫌いではなく、むしろ尊敬して止みません。己を鍛錬し、ルールに基づいて試合い、勝つ、負ける。実に分かりやすく誇り高い世界です。敗者は去り、勝者は英雄となる。 

 

 しかし、合気道もその楽しさと厳しさでは負けてないよなあ~、とブツブツ言いたくなるのです。(Z)

 
 
 

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